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東京高等裁判所 平成3年(特う)1095号 判決

本籍

東京都江戸川区西瑞江三丁目三四番地

住居

千葉県船橋市三山四丁目三番五号

会社役員

鶴田弘行

昭和一二年五月二六日生

右の者に対する所得税法違反被告事件について、平成三年六月一九日千葉地方裁判所が言い渡した判決に対し、被告人から控訴の申立があったので、当裁判所は、検察官町田幸雄出席の上審理し、次のとおり判決する。

主文

原判決を破棄する。

被告人を懲役一年四月及び罰金二億五〇〇〇万円に処する。

右罰金を完納することが出来ないときは、金四〇万円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置する。

原審における訴訟費用は被告人の負担とする。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人三宅秀明及び同篠崎芳明連名の控訴趣意書に記載されているとおりであるから、これを引用する。

第一訴訟手続の法令違反の主張(控訴趣意第一点の第二)について

所論は、要するに原判決は、違法に収集された証拠能力のない証拠に基づいて事実を認定した違法があり、その違法が判決に影響を及ぼすことは明らかである、というのである。

そこで、検討するに、所論は、単に原判決には違法に収集された証拠能力のない証拠により事実を認定した違法がある旨主張するに留まり、原判決の挙示する証拠中、いずれの証拠が違法に収集されたものであるかにつき、その特定を欠いているので、すでにこの点において不適法といわざるを得ない。しかも、原判決の挙示する関係各証拠は、収税官吏大蔵事務官作成の脱税額計算書、脱税額計算書説明資料、有価証券売買益調査書、売買回数及び売買株数調査書、有価証券取引税調査書等をも含め、原審において、弁護人が総て証拠として取り調べることに同意した書面、あるいは取調べに異議がない旨の意見を述べた証拠物であって、いずれも適法に取り調べられたものであるから、これらの書面を作成する際に原始資料となった証拠物の捜索、差押手続が違法であったか否かにかかわらず、証拠能力を有するものというべきである(最高裁判所昭和三六年六月七日大法廷判決・刑集第一五巻第六号九一五頁参照)。もっとも、刑訴法三二六条一項は、その書面が作成されたときの状況を考慮し相当と認めるときに限り、これを証拠とすることが出来る旨規定しているので、ただ単に、同意があったことのみでは証拠能力を肯定することは出来ないが、関係証拠によると、右各書面の原始資料は、収税官吏らが東京簡易裁判所裁判官の発した捜索差押許可状に基づき、矢田産業株式会社及び株式会社アロークレンの各本店や被告人の自宅等を捜索して差し押さえた株式取引ノート、株式売買報告書、顧客勘定元帳(写)、手帳、あるいは被告人その他の関係人の質問てん末書、申述書、検査てん末書、金融機関等に対する照会回答書等であって、所論が争う書面は、いずれも右の原始資料に基づいて作成されたものであることが認められる上、その押収手続に何らの違法も存しないから、前記各書面の作成状況の相当性も十分肯定することが出来る。してみると、原判決の挙示する右書面は総て証拠能力を有するものというべきである。

この点につき、所論は、前記原始資料は、被告人が昭和六三年一〇月一九日船橋税務署の係官から要求されて提出した顧客勘定元帳などを端緒に、収税官吏が本件所得税法違反の査察に着手し押収したものであって、その押収手続が所得税法二四三条や国家公務員法一〇〇条に規定する税務署職員の守秘義務に違反してなされたものであり、ひいては本件査察手続が憲法三一条、一三条にも違反するから、その捜索差押にかかる前記原始資料のみならず、それらの資料により作成された原判決挙示の関係各証拠も総て違法収集証拠として、その証拠能力が否定されるべきである旨主張する。

しかしながら、関係証拠によると、被告人は、昭和六三年一〇月六日、船橋税務署職員の税務調査を受けた際、同職員から株式取引に関する顧客勘定元帳の提出方を求められたので、証券会社から右元帳を取り寄せた上、同月一九日、これを同税務署に提出したこと、一方、収税官吏は、同年一一月二日、東京簡易裁判所裁判官から捜索差押許可状の発付を得て、同月四日、被告人の居宅や矢田産業株式会社本店等を捜索し、証拠物多数を差し押さえたこと、その差押物件中には、株式取引ノート、株式売買報告書、顧客勘定元帳(写)等も含まれていることが認められる上、被告人は、原審公判廷において、同日査察官が自宅に来た時、査察官は被告人が株式取引をしている証券会社名を知らない様子であった旨供述しているのであって、これらのことに徴すると、被告人の提出した顧客勘定元帳が本件査察の端緒となったものとはにわかに認め難いところである。この点につき、所論は、被告人が船橋税務署に顧客勘定元帳を提出してから僅か一〇日程して、本件査察が開始されていることに鑑み、その間に捜索差押許可状の発付を求め、一斉査察に必要な準備を行うことなどを考慮すれば、被告人の取引先証券会社を事前に察知することは到底不可能であるから、被告人の提出した顧客勘定元帳が本件査察の端緒になったことは明らかである旨主張する。しかし、通常収税官吏が査察に着手するまでには相当の準備期間を要し、しかも、その間に、相当内偵が先行していることも容易に推測される(このことは、被告人が原審公判廷において、昭和六三年九月中頃、船橋税務署職員から電話があって、資料を揃えておいて欲しいとの連絡があった旨供述していることに徴しても十分窺える。)から、所論のような事情が存したとしても、被告人が提出した顧客勘定元帳が本件査察の端緒になったものとは即断出来ない。仮に、これが端緒になったとしても、所得税法二三四条二項の規定が、その立法趣旨に照らし、税務調査中に犯則事件が探知された場合に、そのことが端緒になって収税官吏による犯則事件としての調査に移行することを禁ずる趣旨のものとは解されない(最高裁判所昭和五一年七月九日第二小法廷判決・裁判集二〇一巻一三七頁参照)ので、本件犯則調査の際の押収手続が違法であるとは到底考えられない。

そうだとすると、被告人の提出した顧客勘定元帳が本件犯則事件の端緒になっていることを前提とする所得税法二四三条や国家公務員法一〇〇条に規定する税務署職員の守秘義務違反ないしは憲法三一条、一三条違反の主張は、いずれも前提を欠くことになるので、失当といわざるを得ない。

第二「偽りその他不正の行為」に関する事実誤認の主張(控訴趣意第二点の第一)について

所論は、要するに、原判決は、被告人が株式の評価損を記載した雑記帳やメモを作成したことをもって「偽りその他不正の行為」と認定したが、被告人がこれらを作成したのは、単に、株式評価損を算出するに際し記憶喚起のためのメモとしたものに過ぎないから、原判決の右認定は誤認である、というのである。

しかし、原判決を精査しても、所論のような事実認定は全く見当たらないから、所論は既にその前提において失当である。所論は、原判決を正解し得ないか、そうでないとすれば、ことさらにこれを曲解するかのいずれかであって、もとより採るを得ない。

念のため付言すれば、原判決は、その「罪となるべき事実」の冒頭部分において「架空の株式売買損を控除して売買益の一部を除外するなど不正な方法により所得を秘匿したうえ」云々と説示しているが、原判決が本件を事前の所得秘匿工作を伴わない虚偽過少申告事犯(すなわち、過少申告行為そのものが「偽りその他不正の行為」に当たる。)と構成していることはその判文全体を通じて明らかであって、右説示部分は、被告人が確定申告書を作成提出するに際しことさらに所得の一部を記載しなかったことを意味するに過ぎず、所論雑記帳(ちなみに、そのような標題の証拠物はなく、所論のいわんとするのは、押収してある手帳一冊のことと解される。)などへの記載をもって「偽りその他不正の行為」とする趣旨でないことは、敢えて多言の要をみない。

また、原判決は、その「証拠の標目」中に、押収してある「手帳一冊(メモ書五枚を含む)」及び「メモ書四八枚」を挙示しているが、これらをもって「偽りその他不正の行為」の証拠とする趣旨でないことは、これらの立証趣旨が「貸付金利息収入」に関するものであることに照らしても明白である。

原判決に所論の事実誤認は認められない。

第三犯意に関する事実誤認(控訴趣意第二点の第三)及び法令適用の誤り(同第一点の第一)の主張について

所論は、要するに、原判決が被告人の逋脱の犯意を推認する根拠として掲げる諸事実からは、たかだか被告人が、自らの株式売買益が課税要件を充たしていることを知りながら、手持株が値下りして評価損を生じたのでその分を控除し、更に、何らの根拠もないのに、昭和六一年分については約一六〇〇万円、同六二年分については約一五〇〇万円を控除していわゆる「つまみ申告」をしたことが認められるに過ぎず、しかも、原判決によれば、被告人は、保有株式の評価損については所得税法上控除出来てもよいのではないかとの考えを持っていたがその旨の確信まではなかったというのであるから、本件脱税に関しては「未必の故意」を有したに過ぎないところ、本件のような事前の所得秘匿工作を伴わない過少申告事案において過少申告行為そのものが「偽りその他不正の行為」に当たる(最高裁判所昭和四八年三月二〇日第三小法廷判決・刑集二七巻第二号一三八頁参照)というためには、「未必の故意」では足りず、当該申告によって税を逋脱することの積極的な意思の存在及び当該申告行為が外形的にも不正の行為とみられることを要すると解すべきであり、原判決が「未必の故意」をもって逋脱の犯意と認定したのは、法令の解釈を誤り、ひいて事実を誤認したものであって、その誤りが判決に影響をおよぼすことが明らかである、というのである。

しかし、所論引用の最高裁判例から所論のような解釈を導きえるか疑義なしとしないが、その点はさて措くとしても、原判決は、所論「未必の故意」ではなく、確定的故意を認定説示していることがその判文上明白であるから、所論法令適用の誤りの主張はその前提を欠くものであり、また、原審の記録及び証拠物を調査して検討しても、原判決の右認定に誤りがあるものとは認められない。

すなわち、本件は、事前の所得秘匿工作を伴わない虚偽過少申告事案であるが、所論引用の最高裁判例によれば、「真実の所得を隠蔽し、それが課税対象となることを回避するため、所得金額をことさら過少に記載した内容虚偽の所得税確定申告書を税務署長に提出する行為」自体、「偽りその他不正の行為」に当たるというのであるから、逋脱の犯意としてはその旨の認識、認容を要し、かつ、これをもって足りるというべきところ、原判決挙示の関係証拠によれば、被告人は、実際の株式売買益の金額を正確に把握していたにもかかわらず、その全額が課税対象となることを回避するため、保有株式の値下り分については「売買(ばいかい)を振る」と称して架空の売却損を算出した上これを所得から控除し、昭和六一年分及び同六二年分についてはそれでも利益が出過ぎるとして更に適当な金額を控除した金額を株式売買益として記載したメモ書を税理士に交付し、これに基づいて税理士の作成した所得税確定申告書に署名押印して自ら所轄税務署長に提出したことが認められるから、当該所得税確定申告書が所得金額をことさらに過少に記載した内容虚偽のものであることを十分認識した上であえて申告行為に及んだものというべきである。

してみれば、本件各逋脱行為につき被告人が確定的故意を有したことは明らかであるといわなければならない。

ちなみに、原判決は、逋脱の犯意を認定するに当たり「推認」という表現を用いているが、前示事実は、被告人の検察官に対する各供述調書中のこれに副う部分(所論は、原審で同意書面として取調べられたこれらの調書の信用性を否定するが、採るを得ない。)などの直接証拠によって端的に認められるので、推認の用語はやや適切を欠く。原判決の掲げる間接事実は、むしろ直接証拠によって認定出来る事実の裏付資料というべきである。

なお、所論は、被告人が、保有株式の評価損の控除は所得税法上も認められてよいのではないかとの考えを持っていたという点(仮にそうだとしても、確定申告書には株式売買益として真実の金額を記載し、所得から控除される金額として評価損相当額を計上すべきこと論を俟たない。)を、被告人の犯意が「未必の故意」に留まることの論拠とするが如くであるが、原判決が正当に指摘しているように、それは法律の錯誤にほかならず、犯意の成否・内容とは関わりのないことである。

以上のとおり、原判決には所論事実誤認、法令適用の誤りはない。

第四量刑不当の主張(控訴趣意第二点の第二、同第三点)について

原審記録及び証拠物を調査して原判決の量刑の当否を審査するに、本件は、原判示二法人の代表取締役としてその経営に従事する傍ら、個人で継続的に有価証券の売買を行って来た被告人が、自己の所得税を免れようと企て、昭和六〇年分から同六二年分までの三年分に亘り、株式売買益から架空の売却損や適当と考える金額を控除し、所得金額をことさらに過少に記載した内容虚偽の所得税確定申告書を所轄税務署長に提出し、そのまま法定の納期限を徒過させ、もって不正の方法により右三年分の所得税合計一一億〇一五〇万七四〇〇円を免れたという巨額の脱税事案であって、逋脱率も約九八パーセントと極めて高率であること、被告人が本件各犯行に及んだ動機は右法人(矢田産業株式会社)の経営資金獲得の目的や株式で儲けた利益を正直に申告することが馬鹿馬鹿しいという気持から出たものであって、著しく納税意識を欠いており、その動機には何ら考慮すべきものが認められないこと、これらの諸事情に照らすと、被告人の刑責は甚だ重いといわざるを得ない。

所論は、原判決は、被告人が本件各犯行を敢行するに至った動機について、その事実を誤認していること、また、本件当時における株式売買益は原則として非課税とされており、しかも、課税要件を満たしていても、正直に申告する者は殆どなかったこと、本件後所得税法が改正されたので、その改正により本件逋脱額を算出してみると、僅か一億六二〇七万九〇七〇円に過ぎないこと、これらの諸事情を被告人のため有利に斟酌すべきであるのに、これを何ら考慮することなく、被告人を処断した原判決の量刑は重過ぎて不当である旨主張する。

しかしながら、被告人が本件犯行に及んだ動機は、すでに説示したとおりであって、これと同旨の認定をした原判決には動機の点に関しても何ら事実の誤認は存しない。また、本件当時、株式取引の売買益について原則非課税とされていたとしても、被告人のした株式取引の売買益が課税要件を満たしている以上、これに所得税を課し、更に、その所得税を偽りその他不正の行為により免れた場合、これに対し、刑罰をもって臨むべきことは蓋し当然であるから、そのことを被告人のため有利に斟酌すべきものとは到底考えられない。更に、所得税法の改正に際し経過規定を設けて、改正前に行なった有価証券の譲渡による所得については、なお従前の例によるとしており、そして、その趣旨とするところは、同一法令の施行当時における納税者に対し、裁判時の如何を問わず、同一法令の適用して、正規に納税した者との間に不公平が生ずることのないように扱うことを明らかにしたものであるから、被告人の本件所得税につき改正法を適用する余地はないのみならず、量刑上もこの点を被告人に有利に斟酌すべきいわれは全く存しない。

してみると、被告人は、本件を契機に自己の立場を自覚し、今後二度と同様の過ちを繰り返さないように決意するなど、本件について深く反省していること、本件逋脱にかかる所得税のみならず、本件前の二年分の所得税についても修正申告をして、それらの本税、附帯税及び地方税の総てを完納したこと、競馬法違反による罰金前科が一回あるだけで他に前科前歴がないこと、本件の犯行態様はいずれも単純であって、事前の秘匿行為を伴うものではないこと、この種事犯に対する近時の量刑事情、被告人が服役した場合の関係会社や家族に与える影響、その他所論が縷々指摘する被告人に有利な諸般の情状を十分斟酌しても、本件につき刑の執行を猶予するのは相当でなく、被告人を懲役一年六月及び罰金二億五〇〇〇万円に処した原判決の量刑は、その宣告当時においては誠に相当であって、これが重過ぎて不当であるとは到底考えられない。論旨は理由がない。

しかしながら、当審における事実取調べ結果によると、被告人は、原判決を厳粛に受け止め、一層反省の度を深めると共に、日本育英会及び日本赤十字社にそれぞれ一〇〇〇万円の贖罪寄付をしたこと、被告人の健康状態が必ずしも勝れないこと、個人の分の税務申告も税理士に嘱託するようにしたことなどが認められるので、これに原審当時から存した被告人に有利な諸事情を併せ考えると、原判決をそのまま維持するのは明らかに正義に反するものといわなければならない。

よって、刑訴法三九七条二項により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書に従い被告事件について更に次のとおり判決する。

第五自判の裁判

原判決の認定した事実(但し、原判決第一ないし第三の各事実中、「所得税確定申告書を提出し、」とある次に、「そのまま法定の納期限を徒過させ、」をそれぞれ加える。)に刑種の選択、併合罪加重の点をも含めて原判決と同一の法令を適用し、その刑期及び金額の範囲内で被告人を懲役一年四月及び罰金二億五〇〇〇万円に処し、右罰金を完納することが出来ないときは、刑法一八条により金四〇万円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置し、原審における訴訟費用については刑訴法一八一条一項本文を適用して被告人に負担させることとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 半谷恭一 裁判官 新田誠志 裁判官 浜井一夫)

平成三年(う)第一〇九五号

○ 控訴趣意書

被告人 鶴田弘行

右被告人に対する所得税法違反控訴事件について、弁護人らは控訴の趣意を左記のとおり陳述する。

平成三年一一月六日

右被告人弁護士 三宅秀明

同 篠崎芳明

東京高等裁判所第一刑事部 御中

第一点 原判決には明らかに判決に影響を及ぼす法令解釈適用の誤りがあるので、その破棄を求める。

第一、原判決には逋脱の犯意につき法解釈を誤った違法がある。

一、原判決は、弁護人において「被告人が単なる記憶喚起のため、雑記帳などに評価損を記帳していたものであって、右記帳は『偽りその他不正の行為』に該当しないし、また過少申告行為それ自体が『偽りその他不正の行為』に当たる場合には、当該申告によって、税を逋脱することの積極的意思の存在を要する」旨主張したところ(弁論要旨一九頁)、これに対し原判決中、(弁護人の主張に対する判断について)の一の4において、「・・・被告人は自分自身の考えから保有株式の評価損について所得税法上控除できても良いのではないかと思っていたことは認められるものの、その旨の確信までは持っていなかったものと認められる」としたうえで、引き続き一の5、6において、「被告人の逋脱の意思を推認する事実として、被告人は昭和三二、三年頃から株式取引を行っているところ、昭和三六、七年頃、江戸川税務署から配当金の申告漏れを指摘された際、税務署の担当者から一年間に株式売買回数が五〇回以上で、売買株式が二〇万株以上の取引を行った場合、株式益の申告をしなければならないと教えられたことなど(原判決の中「弁護人の主張に対する判断について」の一の五〈1〉乃至〈4〉記載の各事実)を認定し、これらと本件犯行の動機及び各証拠を総合すれば「被告人は逋脱の犯意を有していたものと優に認めることが出来る」旨判示している。

二、原判決の右認定を総合すれば、「申告に際し、保有株式の評価損については、所得税法上控除できないかもしれないが、それでも構わないとの意思で申告した」と言うのであるから、それは「未必の故意」ということになる。

ところで、最高裁昭和四八年三月二〇日判決は「真実の所得を隠蔽し、それが課税対象となることを回避するため所得金額を、ことさら過少に記載した内容虚偽の所得税確定申告書を税務署長に提出する行為(過少申告行為)自体、単なる所得不申告の不作為にとどまるものでなく、『詐偽その他不正の行為』に当たるものと解すべきである」と判示しており(最高裁昭和四八年三月二〇日判決、刑集二七・二・一三八頁)、同判決に「ことさら虚偽過少申告」とあるのは、所得秘匿行為に伴わない場合であるから、当該申告によって税を逋脱せしめることの積極的な意思の存在と、あえて右申告に及ぶ行為を要するものと解すべきである(「ことさら」の意義については、刑法改正準備草案一一条、同理由書一〇四頁参照)。即ち、犯意の面において積極的意思の存在が必要であって、「未必の故意」では足りないと解さざるを得ず、行為の態様において客観的にみて、あえて右申告に及ぶ行為であることが外形的に明らかな場合を指称するものと解するのが相当である。要するに所得秘匿行為を伴わない虚偽過少申告においては、犯意の内容として、「未必の故意」では足りず、更に過少申告それ自体において、直ちに不正の行為となるのではなく、外形的にみて不正行為とみられる要素がそれに伴って必要であると解すべきである。換言すれば、実体的にみて不正行為と言い得る状況を備えることによって逋脱犯を構成するというべきである。それはそれ自体独立して、所得秘匿行為として評価し得るに足るものであることを要しないが、しかし、客観的にみて税を不正に免れようとする外部的付随事情を具備したところの過少申告行為であることが必要である」と言うべきである(松沢智「逋脱犯の訴追・公判をめぐる諸問題」租税法研究第九号六二頁、以下「松沢論文」という)。

三、これを本件についてみるに、被告人が保有株式の評価損を算定した雑記帳・メモは、単に記憶喚起のため記帳したに過ぎないもので、「所得秘匿行為」とは言えず、かつ、犯意については「未必の行為」を認定したにとどまるのであるから、従って本件が所謂「つまみ申告」であり、被告人に積極的な意思はなく、かつ、雑記帳・メモの記載が申告とは結びつかない以上、それは何ら外部的付随事情とはなり得ないもので、法的に言って本件は原判決判示の「罪となるべき事実」を構成しないものと言わざるを得ない。

要するに、本件は原判決が逋脱の犯意につき、「つまみ申告」でも「未必の故意」で足りるとした点に、法解釈を誤ったものと言わなければならない。

四、原判決は昭和六〇年分については「架空の株式売買損を控除した」とし、昭和六一年、昭和六二年分については「架空の株式売買損を控除した後、さらに何ら根拠なく適当に所得額を圧縮して虚偽の過少申告した・・・」と認定しているところ、前述したように被告人が保有株式の評価損を算出した雑記帳やメモは記憶喚起のために記帳したものに過ぎず、かつ、何ら根拠なく適当に所得額を圧縮した虚偽の過少申告は所謂「つまみ申告」であって、いずれも所得秘匿行為を欠くものである。

従って、昭和六〇年乃至昭和六二年分については、いずれも所得秘匿行為を欠くものとして所得税を逋脱する積極的意思の存在を必要とするところ、本件は未必の故意にとどまり積極的意思は存在せず、逋脱の犯意を欠くものと言わざるを得ない。

また仮に原判決が判示するように、被告人が「架空の株式売買損を控除した」ことが所得秘匿行為に該当し未必の故意で足りるとしても、昭和六一年、昭和六二年分については原判決は前記のとおり、「架空の株式売買損を控除した」だけでなく、「何ら根拠なく適当に所得額を圧縮して虚偽の過少申告をした・・・」と認定しているところ、後段「適当に所得額を圧縮して虚偽の過少申告をした」とする点については、これが所謂「つまみ申告」であり、前記のとおり積極的意思は存在せず、逋脱の犯意を欠くことは明らかであるから、犯意としての認識を欠く逋脱金額の限度で犯罪を構成しないことになる。

つまり、一年分の株式売買益のうち犯意のない部分と犯意のある部分が右雑記帳・メモの算定によって明白に分離できるのであるから、「個別認識説」に従って区分し、犯罪の成否を判定すべきである。

五、過少申告逋脱犯につき、実際所得金額と申告額との差たる脱漏額のうち、その一部分の所得につき認識がない場合に、その認識のなかった部分に対し、犯意を欠くものとして、当該部分にかかる逋脱犯の成立が否定されるべきか否かにつき、消極に解する「概括認識説」(全税額説)と、積極に解する「個別的認識説」との対立があるが、逋脱犯についての犯意は「個別認識説」によるのが妥当である。

「概括的認識説」とは、逋脱犯の犯意として所得の総額についての正確な認識も必要ではなく、申告額を上回る所得が存在しているとの認識があれば足りるとは、秘匿した所得の総額についてのおおよその認識があればよく、かかる概括的な認識があれば、正当税額と申告額との差額全部につき逋脱犯が成立すると説く見解である。しかしそれは犯意の内容とは何かという概念決定の問題と、租税犯の犯意の立証はどの程度をもって足りるかという立証の問題とを混同している点に誤解があって妥当ではない。

即ち、逋脱税額が正確にいくらであるか、その具体的金額についてまでは認識を要しないといわれるが、それは行為者において多数の年間取引によって生ずる収益や損金を全ていちいち正確に把握していることは実際上殆ど不可能であるということに由来するからである。従って申告額と客観的所得との間に差があれば、犯意がすべてに及んでいると推認されるという立証の問題を犯意の内容に取込んでいるに過ぎないのである。申告額を上回っていることの認識さえあれば足りるというのは、量の認識は間接事実(証拠)によって推認し得るという立証の次元の問題を説明しているに過ぎないのである。

要するに、逋脱犯における逋脱の犯意につき、取引毎の個別的な犯意である必要はないとされるのは、立証の問題として、免れた全税額につき一応脱税の犯意が推認されるからであるということであって、犯意の内容として、認識のない部分があっても差支えないというのではない。従って、犯意の認められない部分があれば、これを除外して計算すべきであるとする個別的認識説が妥当である。そこで犯意の有無を検討するに当たっては、当該事案により、その内容が区々であって一律ではないから、ケース毎に判断すべきである(前掲松沢論文七二頁)。なお「総所得金額の一部に所得秘匿工作を伴わない部分がある場合」につき、東京高裁平二・一〇・一刑一部判決、判例時報一三六一号一五六頁の判例コメントも概括的故意説によるとしても「総所得金額の大部分について所得秘匿工作が行われ、これを伴わない部分がごく一部に過ぎない場合は問題ないが、所得秘匿工作がそのごく一部、例えば利子所得についてのみ行われているような場合をどう解決するかは今後の課題として残されるものといえよう」と説明し、概括的認識説に批判的である)。

これを本件についてみるに、保有株式の評価損を算定した雑記帳・メモによれば昭和六一年及び昭和六二年分の各評価損の額は明確に識別できるのであるから、この部分については犯意がないことが明白であり、他と区分できるのであるから、右各金額はこれを各年分の実際所得金額から控除すべきである。

六、なおこの点につき、「同一構成要件に属する具体的事実の錯誤」を根拠とし、一部につき認識を欠いても同一構成要件内における具体的錯誤として認識のなかった部分を含む全部の逋脱の結果につき犯意を阻却しないとの反論も予想される。しかし逋脱の結果は「偽りその他不正の行為」に基く実際所得と申告額との不一致であって、差額だけでは単純過少申告は不可能であるところから、実際所得額と申告額との間の不一致の全部の金額が逋脱の結果となるものではないからである。単に両者に不一致が生じただけでは犯罪としての結果が発生したとは言えない。もともと偽りその他不正の行為の認識のなかった部分については、逋脱の結果は発生せず認識と結果との間に食い違いがない以上、錯誤を論ずる余地はないと言うべきである(松沢論文七三頁)

第二、原判決には、違法収集による証拠能力を欠く証拠により認定した違法がある

一、原判決は「所得税法二三四条二項は、税務調査中に犯則事件が探知された場合、これが端緒となって収税官吏による犯則事件としての調査に移行することをも禁ずる趣旨でないと解されるところ、本件において、右の場合を逸脱し所得税法二三四条二項に違反するような事実は認められない」と判示するが、右は同法の解釈を誤っており、かつ、この点に関し、事実を誤認している。

二、原判決は、本件各証拠が裁判官の発布した令状に基づき行った捜索差押により取得したり、大蔵事務官が作成した質問顛末書や臨検して得た検査顛末書、銀行や証券会社等の回答書などに基づいて作成されたものと認められるとし、本件に所得税法違反はない旨判示するが、それは明らかに事実を誤認している。

即ち、実際には正規の所得税額と被告人の申告税額との差額が多額であり、その額が国税局内部訓令の定める基準を超える場合に当たるところから、船橋税務署長は東京国税局直税部資料調査課への報告義務に基づいて資料を同局同部課へ送付し、同資料調査課においてこれを同局査察部へ回付したものである。そこで査察官(収税官吏)は、始めて被告人の犯則の嫌疑を知り、これが端緒となって犯則事件の調査を開始したものであり、このような実務の状況は国税部内だけでなく一般納税者の間においても周知の事実である。

これらの点につき原判決は「弁護人は、被告人が船橋税務署の税務調査に際し、質問検査権に応じて提出した各証券会社の勘定元帳などの写しが、船橋税務署長から東京国税局査察官に送付され、同査察官は右写しに基づいて各証券会社を了知した旨主張するが、そのような事実は認められない」など判示し、被告人の原審公判廷における「船橋税務署の税務調査の後、国税局の査察が行われたが、そのとき国税局の査察官は被告人が取引していた証券会社名やその支店名を知らない様子であった」旨の供述を引用しているが、右供述はその前後の内容を精読すると必ずしも明白ではない。

むしろ被告人は昭和六十三年十月一九日船橋税務署の係官の要求に基き顧客勘定元帳などの書類を提出し、国税局の査察官は同年一一月二日東京簡易裁判所に捜索差押許可状の発付を請求し(捜索差押顛末書参照)、同年一一月四日には刑事事件として被告人の自宅、被告人の経営する矢田産業株式会社、及び同会社の顧問税理士である田中政司の経営する田中税務会計事務所、さらに被告人の取引証券会社やその各支店に対し、同日一斉に査察調査を行っているのである。

このように、被告人が船橋税務署の係官の要求に基き顧客勘定元帳など書類を提出してから僅かに一〇日程の間に、本件査察が開始されて、収税官吏が東京簡易裁判所の捜索差押許可状の発付をを求め、被告人の自宅など一斉に査察調査を行うに必要な準備期間など考慮すれば、査察官が被告人の取引先証券会社やその支店までも事前に察知することは、到底不可能であると言わざるを得ない。

原判決はこのような実務の現状を認識せず、事実を認識していると言うことが出来る。

三、ところで、最高裁は「税務調査中に犯則事件が探知された場合に、これが端緒となって収税官吏による犯則事件としての調査に移行することをも禁ずる趣旨のものとは解し得ない」と判示するが(最判昭五一・七・九判決、裁判集二〇一号一三七頁)、寧ろ同判決は、同事件の具体的事案に則し、質問検査権の行使による入手資料が何らかの形で犯則調査開始のための嫌疑となって、犯則調査が開始されたとする手続を直ちに違法視し得ないという意味において、質問検査権行使による入手資料と刑事手続との関係の限界の事例における判示として理解すべきである」(中村勲「税務訴訟と刑事処分との関係(1)」小川英明・松沢智編「租税争訟法(裁判実務大系二〇)」五六六頁)と説かれている。これは税務調査の結果、過小申告の事実が明らかとなり修正申告した事実(重加算税を含めて)がマスコミ等で取り上げられ、これが逋脱事件の端緒となって犯則調査に移行する場合とか、収税官吏が独自で犯則事件を探知した場合に限られるのである。本件のようなケースでは、税務調査した係官において知り得た秘密を漏洩したものと窺われ、その場合には守秘義務違反(所得税法二四三条、国公法一〇〇条)として刑事処分の対象とされているのである。そして右守秘義務違反によって得られた資料によって犯則調査を開始し証拠を得たとしても、その証拠は違法収集の証拠として証拠能力が否定されるべきである(最判昭五三・九・七、形集三二・六・一六七二頁)。たとえ査察官が右証拠をもとに引き移して犯則資料の証拠を別個に作成したとしても犯則調査には、犯則者の黙秘権の保証はなく、右違法性は承継され、依然証拠能力が否定されることは言うまでもない。所得税法二三五条二項の「当該職員」には収税官吏は含まれないから官公署への協力要請はできない。査察官の証拠収集は国税犯則取締法に依るべきである。

以上のように解しなければ所得税法二三四条二項の「質問検査権は犯罪捜査のために認められたものと解してはならない」との規定は空文となってしまう。同条は税務調査と犯則調査の峻別を厳守するための効力規定である。刑事責任追及のための資料収集手続に違反する本件査察手続は、憲法三一条、同一三条の適正な法的手続の保障の規定に違反するものであり、犯則調査は逋脱犯という刑事責任を追及するためにのみ設けられているのであって、税を徴収するためではない。現在の国税部内における公然とした誤りを是正し、憲法の適正手続の保障を厳守させるべく、そのためにも原判決は破棄されるべきである。

第二点 原判決には明らかに判決に及ぼす事実誤認があるので、その破棄を求める。

第一、原判決は被告人が、株式の評価損を記帳した雑記帳・メモを作成したことをもって、「偽りその他の不正の行為」と認定した点に事実を誤認している。

一、原判決はその理由(罪となるべき事実)において、「架空の株式売買損を控除して売買益の一部を除外するなど不正な方法により所得を秘匿し・・・」と認定している。

しかし、被告人が作成した雑記帳やメモは、税務署の係官も自らこれは認めているように、単に株式評価損を算出するに際し、記憶喚起のためのメモとして作成していたに過ぎないものである。被告人は調査官の税務調査に際しても、最初から実際に株式を売買したものではなく、評価損を算出するために便宜をメモしていたものであることを、ありのまま、正しく説明しているのであって(被告人供述調書一四頁)、実際に株式売買があったなどとは、決して口にしてはいないのである。この事実からしても被告人が前記雑記帳やメモを所得秘匿のための手段として作成したものでないことは明らかである(弁論要旨二〇頁二六頁)。

二、被告人が、税務調査に際して、若し、雑記帳・ノートを調査官に示して、これが実際に売却損であると虚偽の陳述をしたのであれば、右雑記帳やノートの作成が「偽りその他不正の行為」としての所得秘匿行為と認められるのもやむを得ないが、本件においては決してそのような事実はない。被告人としては「実際に売買したものではないが、手持ち株式を評価すると、これだけ多額の評価損が発生しているので、認めて貰いたい」旨述べているに過ぎないのである。しかも被告人は「損したら売らない」ことを信念にしていたのであり、調査に当たった調査官も被告人の説明を心情的には肯定しながら、これに対し「気持ちはわかるが認められない」と応答しているのである。

これらの事実を考慮すれば、右雑記帳・メモの作成が「偽りその他不正の行為」としての所得秘匿の手段でないことは極めて明らかである。

三、しかるに原判決は、(弁護人の主張に対する判断)の中で、「被告人の逋脱の故意及び不正行為について」と題して、この点について判断を示すべく言及しているが、単に、動機・犯意・逋脱の意思の認定にとどまり、「偽りその他不正の行為」につき何ら応えていない。

同判決が、本件の雑記帳・メモの作成について、それが「偽りその他不正の行為」に該当するか否かについて全く言及していないのは、実は原判決がこれを積極的に解するための証拠もなく、かつ積極的に解する理由もなかったからと考えざるを得ないのである。

しかも右雑記帳やメモはその形状から言っても、記載内容から言っても、また昭和六一年、同六二年分においては、申告額と所得から評価損を差し引いた金額とが符節しないものであることなどからしても、一般的にみても、これが所得秘匿の手段となり得ないものであると言うことが出来る。

これらの事実を総合すれば、当然に雑記帳・メモの作成が「偽りその他不正の行為」に当たらないことは明らかであるにも拘らず、原判決が何らの根拠を示さず、雑記帳・メモを証拠として引用したことは、明らかに事実誤認したものと言わざるを得ない。

第二、原判決は株式売買に係る過少申告の動機につき、事実を誤認している。

一、原判決は、被告人が有価証券の架空の売買損を所得から控除した動機につき、要するに「矢田産業の経営に資金を要し、銀行の信用上、会社のみならず被告人自身の資産が多額である必要があり、被告人は、以前株式仲間から株の売買で儲けた分につき税金を納めるものはいないと言われ、株式売買についてすべて正直に申告して税金を納めるのは馬鹿馬鹿しいと思っていた、損してまで株式の売却はしない方針であったが、保有銘柄の株価が下がると損した気持ちになり現実に得た売買益を正直に申告する気になれなかった」ことなど挙げ、右の事実は、「被告人の検察官に対する供述調書によって認められるところ、同供述調書中には『脱税がそれ程悪いことだとの考えも持たないでいた』旨の記述など、被告人の心情を吐露している部分もあり、右供述調書は信用できる」旨判示している。

二、しかし原判決はこれら「動機」の認定につき、被告人の検察官に対する供述調書を無批判に何らの吟味もしなかった点に根本的な誤りがある。

即ち「馬鹿馬鹿しい」と言う文言が検察官の論告要旨の中に四ケ所にも用いられており、かつ、被告人の検察官に対する供述調書(三通)の中にも同様の文言が散見できるが、被告人の原審公判廷での供述によると「被告人は『馬鹿馬鹿しい』とは思いませんです」と供述して、かかる文言を使用したことを否定している。「馬鹿馬鹿しい」と言う文言は、この種の事件の捜査の過程で度々使用される言葉であり、前記原審公判廷での被告人の供述を併せ考慮すると、被告人が「馬鹿馬鹿しい」などと供述したとは思えず、これが検察官の創作に基く言辞(弁論要旨六五頁)であることは明らかである。

もともと株式取引による売買益は原則非課税であり、個人では株式売買において損失が生じても控除されず、繰越控除できないことから、一般的には殆ど申告納税されず、行政当局も積極的に課税措置について配慮することなく放置していたのが現実である(後述東京地裁昭和五六年六月二九日判決、判例時報一〇一六号三頁参照)。

この様な状況の中で、被告人は昭和三六、七年頃から毎年手持株式の配当所得については、これをすべて申告しており、しかも過少であるとはいえ、株式売買益についても申告しているのである。従って、税務署係官としても、毎年の保有株式の配当所得に係る株式の移動状況から、容易に株式売買益を知り得る状態にあったことなど併せ考えると、本件は多くの無申告者が発覚摘発された場合と異なり、通常用いる常套文言である「馬鹿馬鹿しい」等と言う言辞を被告人が口にするとは到底考えられず、検察官の創作としか思えない。

三、弁護人としても、被告人が矢田産業を経営して行くのに、お金が必要であり同会社の信用だけでは誰も相手にしてくれず、結局、社長である被告人個人の資金が必要であること、そのために被告人が少しでもお金を蓄積しておきたいと考えていたことは否定しない。しかしそのために脱税したものでないことは、被告人が原審公判廷において明白に供述しているとおりである。被告人が過少申告に至った最大の原因は税法に対する知識の欠如にあるのであって、この点について被告人は原審公判廷において「私も税法に対する知識のなさというものもわかり、なおかつ、自分の知識のなさのために大変なことになってしまったというふうに思っています」と供述している。また被告人が検察官に対する供述調書において「自分のやったことが、これ程悪いことだとの考えを持たなかった」と供述しているのも、この立場に立って供述したものである。

右のように原判決は、動機の認定につき重大な事実を誤認している。

第三、原判決は被告人に逋脱の意思を推認することが出来るとした点に事実を誤認している。

一、原判決は、被告人の逋脱の意思を推認する事実として次の事実を認定している。

「〈1〉 被告人は、昭和三二、三年ころから株式取引を行なっているところ、昭和三六、七年ころ、江戸川税務署から配当金の申告漏れを指摘された際、税務署の担当官から一年間に株式売買回数が五〇回以上で、売買株式が二〇万株以上の取引を行なった場合、株式売買益の申告をしなければならないと教えられたこと、

〈2〉 被告人は昭和五二年ころから、自己の株式取引が税金の申告を必要とする要件を満たしていることを知りながら申告していなかったが、昭和五八年ころ、株式取引関係の脱税事件が指摘され、税務署の調査も厳しくなると思ったので、株式売買益も申告することにしたこと、

〈3〉 被告人は昭和六一年及び同六二年につき申告額が多額で税額も多くなるので、逋脱のため雑収入金額について架空の株式売買損を控除した後、全く根拠がないにも拘らず、被告人自身が適当と考えた、昭和六一年分は約一六〇〇万円、昭和六二年分は約一五〇〇万円の金額を控除したこと、

〈4〉 被告人は本件に関し、所得税確定申告書を記載してもらっていた田中税理士に何ら相談をしていないこと、架空の売買損を計上した後も、株式を実際に購入した際の価格を基準に利益を算出していたこと、

そして右の各事実に前述した本件犯行の動機とされた事実、並びに各証拠を総合すれば、被告人が架空の株式売買損を控除した点につき、単なる所得税法上の見解の相違ではなく、被告人は逋脱の犯意を有していたものと優に認めることができる」と判示している。

二、しかし、右事実の認定には根本的な誤りがあり、到底納得出来ない。

そもそも事実認定の方法として「推認の方法」があるが、右推認とは、事実上推定を言い、事実上推定されれば、すでに証明されたことになり、証明の必要の問題は生じない。(平野竜一「刑事訴訟法」法律学全集一八四頁)。

右の事実上または裁判上の推定とは、裁判官が証拠によって係争事実の存否を推定する経験法則の応用、若しくは自由心証の問題である(兼子一「民事訴訟法体系」二六一頁)。右の証拠とは間接証拠であり、それによって間接事実を認定した上で一般人の経験法則(自由心証もこれに服する)即ち社会の通常人が日常生活の上で自ら疑いを抱かずにその判断に安んじて行動するであろう程度の心理状態を指すのである(兼子、前掲書二五三頁)。しからば、通常一般人の経験法則に基づけば、前記各事実によって逋脱の犯意が事実上推定されるか否かを検討する。

三、〈1〉においては、被告人が株式売買益の課税要件を認識していたこと、〈2〉においては、被告人が右課税要件を充足し、脱税事件の摘発などから、自らも株式売買益を申告するようになったこと、〈3〉においては、被告人が昭和六一年、同六二年分で税額が多くなったので、所謂「つまみ申告」をしたこと、〈4〉においては、被告人が税理士に相談せず、また架空の評価損を計上した後も、株式の実際購入額を基準に利益を算出していたことなどの各事実と、前記「動機」において会社経営に資金を要し、銀行信用上被告人に貯蓄が必要となり、課税要件を充足しながら申告する人が殆どなかったこと、保有株が値下がりしたら売買益を正直に申告する気になれず、法人税では評価損の控除ができるので所得税でも控除出来ると考えたことなどの事実と各証拠を総合して、果たして逋脱の犯意を推認することが出来るだろうか、極めて疑わしいものがある。これを整理すると、結局、被告人は課税要件を知っていたが、殆どの人達が株式売買益については申告せず、手持株が値下がりして評価損が出たので、所謂「つまみ申告」をしたと言うに尽きるのであり、要するに「つまみ申告」したことが、即、逋脱の意思で行ったかどうかと言うことになる。

四、しかるに原判決は「動機」において「被告人が被告人自身の考えから保有株式の評価損について所得税法上控除出来ても良いのではないかと思っていたことが認められる」、或は「ただ確信までは持っていなかった」などと認定しているところからすると、被告人の本件申告行為は積極的に逋脱の意思をもって行われたものではなく、仮に百歩譲って被告人に積極的に逋脱の意思があったとしても、原判決の認定によると昭和六一年分の約一六〇〇万円、昭和六二年分の約一五〇〇万円に限っては、「未必的故意」にとどまるものと言える。

そうすると「つまみ申告」をもって、逋脱の犯意が推認されるとして、すべて逋脱犯が成立するとすれば「白色申告者や帳簿備付記帳義務のない所得税納税義務者の殆どが恣意的に総て犯罪者として嫌疑をかけられる虞れなしとしないと言う恐るべき結果を生ずる」ことになり、「一億総犯罪人となる危険を醸成する」との批判を受けることになる(松沢論文五九頁)。

五、従って、「つまみ申告」においては、逋脱の故意を「未必の故意」をもって足るとして事実上推定することは許されないのである。この点を全く考慮しない原判決は、明らかに事実を誤認していると言える。

寧ろ、前述したように被告人は昭和三六、七年頃から毎年保有株式の「配当所得」を総てを配当金内訳書を添付して申告しており、これを過去の申告書と比較検討すれば、所轄税務署の係員には被告人の保有株式の売買状況などを容易に把握することが出来たこと、及び被告人が船橋税務署の係員から税務調査をうけた後も、被告人の経営する矢田産業株式会社の顧問税理士である田中政司に対し、被告人個人としても法人同様所得から株式評価損を控除できる旨強く主張し、同税理士も被告人の主張に押されて一時は被告人の主張に沿った法解釈も可能であると半ば信じて、同業の税理士にこの点について意見を求めたことさえあったことなどを考えると、却って右申告時、被告人には保有株式の評価損を控除できるものと確信しており、被告人に「逋脱の犯意」の存在しなかった事実を推認することが出来るのである(証人田中政司により立証予定)

第三点 原判決は形の量定が不当であるので、その破棄を求める。

第一、原判決は株式売買益が原則非課税であることを看過しており、本件は行政処分(更正処分・重加算税賦課決定処分)にとどまるべき事案である。

一、我が国において株式取引を行っている個人株主は現在(平成二年)約二五六〇万人とも言われているが、そのうち本件と同様な継続的取引であるとして申告納税した人達は昭和六〇年で僅か七〇件、同六一年で一八六件、同六二年で一〇五一件に過ぎず、被告人は右の各年分における数少ない申告納税した者の一人である(弁証第二〇号証、同第二一号証)。

原判決はこの点について「申告する者が少ないことの事情を被告人に有利に解することは脱税を助長する結果となり、申告納税制度を否定するもの」と判示し、前述したように被告人が僅少なりとも申告納税してきた事実を無視し、申告納税制度の維持を理由として被告人に実刑判決を課しているのであって、このことは我が国株式取引の実情と、株式売買益が原則非課税であることを看過したものと言える。

二、本件は何ら他人名義や仮名口座を使ったものではないし、仮名預金などによるものでもなく、脱税の方法として、特に悪質巧妙な手段を用いたものでもないことは原判決もこれを認めている。

一般にも逋脱犯につき実刑に処せられている事例は、多くの場合、脱税の手段として所得秘匿行為が存在し、それが仕手株による投機を目的として悪質巧妙な手口をもって行われ、かつ罪証隠滅の顕著な事案であって、その所得原因が株式売買益という原則非課税のみの場合、逋脱金額が高額で、逋脱率が高いと言うだけでもって、実刑を言渡された前例は殆どない。

最近、株式売買益に係る大口脱税事件が摘発されているが(弁証第二二号証、同第二三号証))、いずれも他人名義、仮名口座を使用し、或は仮名預金など所得秘匿行為を伴うものであって、本件のような事案については、総てどのように逋脱金額が高額な場合であっても、税務調査の段階で行政処分(更正処分・重加算税賦課決定処分)にとどまっているのが実情である。

第二、原判決は所得税法改正の趣旨を過っている。

現在所得税法が改正され、本件のように証券市場を経由する株式取引に関しては、売買益を逋脱することはあり得ないこととなり、しかも平成元年四月一日施行された現行法により、源泉分離課税を選択すれば、その逋脱金額は昭和六〇年乃至昭和六二年分を総計しても僅か一億六二〇七万九〇七〇円に過ぎないことになるが、原判決は量刑上この点について全く考慮していない。

第三、原判決は保有株式の評価損を所得から控除出来るか否かについて、法人税法と所得税法がその取扱いを異にしている点につき、容易に専門家に相談できたにも拘らず相談せず、被告人自身、勝手な解釈により保有株式の評価損を控除したと認定しているが、それは申告納税制度の本質を誤解するものである。

申告納税制度においては、申告額をどのように算出するかは「最終的には納税義務者の判断と責任に委されている」(東京高裁平成二年〈コ〉第一六四号事件平成三年六月六日判決)のである。被告人は「税務調査があればこの点について係官に話せば判ると思っていた」(被告人供述調書一一頁)と供述しているのであって、税の専門家である税理士に相談せずとも、被告人が自ら納税義務者としての判断と責任に基づいて保有株式の評価損を控除することが法人に認められているのであるから、当然個人においても認められるべきだと考えたとしても何ら背理ではない。

また、法人においては原則課税の反面、売買損失はすべて控除することが可能であるのに反し、個人においては原則非課税の反面、継続的な取引においてのみ課税されるのが法の規定である。従って被告人個人としての継続的取引が「事業所得」に当たれば、事業用棚卸資産の評価減も認められるのであるから、「評価損」も認められるのではないかと考えることも無理からぬところである。

株取引については、検察官は或る時は「雑所得」であるとし、或る時は「事業所得」であるとして起訴し、裁判所も「事業所得」と判示した事例もあって、その処理は必ずしも趣旨一貫しているとは言えない(弁論要旨三八頁参照)。

このような状況下では被告人が保有株式の「評価損」の控除について必ずしも恣意的に自己に有利に解釈したと即断することは出来ない。

申告納税制度は我が国税制の基本であり、「課税要件を規定する租税実体法規は、納税者において、先ず自ら解釈して申告するものであり、若し後日において法解釈に争いがあれば、そのときは裁判に持ち込んで決着をつけることが法治国家の構造なのである。」(東京地裁昭和五四年九月一九日判決、判例タイムズ四一四・一三八)と解されているのであって、原判決が「税の専門家に相談すべきであった」と判示したのは、申告納税制度の本旨に反するものと言わねばならない。

第四、原判決は本件の逋脱額が高額であること、及び逋脱率の高いことを主たる実刑の理由とするが、これは量刑の基本理念に違反するものである。

一、本件の特色は、(1)逋脱金額が多額で逋脱率の高いこと、(2)逋脱された殆が、株取引によってもたらされたものであること、(3)右株式取引においては仮名口座、借名口座、預金名義分散等の所得秘匿行為のないこと、(4)右株式取引にかかる所得につき過少であっても申告していることの四点にあるところ、原判決が、(1)の逋脱金額、逋脱率を主たる理由として被告人を実刑に処したのは明らかに量刑不当であると言える。

近時、脱税事犯について実刑の風潮が蔓延しているが、果たして逋脱金額が多額で、逋脱率が高率であることだけをもって、総て実刑に処してよいかについては多大の疑問がある。

二、しかるところ、我が国においては、逋脱犯につき最初に実刑判決を言渡した判例(東京地裁昭和五五・三・一〇判決、判例時報九六九号一三頁)と、株式取引による売買益に係る逋脱犯の量刑はどうあるべきかを説示した代表的な判例(東京地裁昭和五六年六月二九日判決、判例時報一〇一六号三頁、一審で確定)が存在する。

(一) 先ず東京地裁昭和五五年三月一〇日判決は、所謂「トルコ風呂」の脱税事件であるが、「本件は懲役刑につき実刑に処するを相当にして、かつ、真にやむを得ないもの」としたうえで、「租税、逋脱犯(直税犯)に対する基本理念」として「租税犯処罰の目的は、「申告納税制度」との関連において理解すべきものである」とし、さらに「一般予防、特別予防の両面をふまえたうえで、量刑を判断すべきものであるが、租税逋脱犯はその基礎に「申告納税制度」が存在しているのであるから、従って特に、(1)逋脱に係る不正手段の態様において、それが申告納税制度の根本を否定する程の反社会性、反道徳性を有するものであって、一般国民の納税意欲(納税倫理)に著しく支障を生ぜしめる程の悪質性が認められるか、(2)逋脱税額が著しく多額か(逋脱率)、その者が税制上優遇されているか、特に申告に係る所得金額との開差が大きいか(申告率)の各事実の有無が刑の量定に当たって特に考慮されなければならない。後者については、特段の理由のない限り納税者の意識において脱税許容度の高い者程、実際所得金額と申告所得金額との開差が大きくなると考えられるから、行為者の申告率の算定も納税に対する意識、反社会性の程度の判定に欠くことが出来ないからである」。

「その所得秘匿行為の態様において、著しく反社会的、反道徳的な行為、手段と認定できるものであり、かつ、その逋脱した金額と併せてみれば、他への悪性の伝播性が窺われ、誠実な納税者をして、その納税意欲(納税倫理)を著しく阻害させる程の悪質性を認め得る限り、かかる行為者に対しては責任主義に基づく刑事制裁として、それ相応の懲役刑を科する必要があるといわねばならない」とし、更に「当該事件の逋脱犯の特質として、『不正手段の態様』につき、多額の入浴料収入を除外して簿外預金を設立する方法をもって所得を秘匿した」・・・「脱税の手口をみると、実際額の記載された入金伝票・売上帳のほかに公表用の入金伝票・現金出納帳を作成したうえ、右実際額の記載された入金伝票はこれを破棄しているなど、・・・巧妙に脱税の発覚を防いでいたものである」・・・「そして罪証隠滅として、実質経理であることを否認し」「国税局係官の上司に陳述し、架空の簿外費用の存在を申立て、これを認容させていた」ことなど事実を挙げている。

(二) 次いで東京地裁昭和五六年六月二九日判決は「直接国税逋脱犯に対する処罰は、その基礎に『申告納税制度』の維持の存することに鑑み、量刑にあたっては、特に逋脱にかかる不正手段の態様において申告納税制度の根幹を否定する程の反社会性を帯び、一般国民の納税意欲(納税倫理)に著しい支障を生ぜしめる程の悪質が認められ、かつ、犯行結果としての逋脱額が著しく高額であるか否かを重視しなければならない」としたうえで、「叙上の有利な情状に鑑みれば、徒に逋脱金額の高額なことにのみ目を奪われて、『申告納税制度』の根幹に触れる悪質な事案であると軽々に即断するのは相当でない」と判示している。

そして、「本件所得税逋脱犯の主要な不正手段とされた雑所得にかかる収入除外をみるに、その対象とされた収益が殆ど株式取引によってもたらされたものであることに、量刑上深甚の考慮を要するものというべきである。

即ち、買集め、或いは事業譲渡類似の如き特殊な場合を除き、本件の如く通常の有価証券の譲渡による所得は、所得税法上原則として非課税とされ、継続してこれを売買することによる所得として政令で定める場合に限り、例外として課税の対象とされるに過ぎないのである。

しかも個人による株式取引が右にいう継続的売買に当たるものとして、その収益が課税の対象となる場合でも、未だ以ってこれを当該個人の「事業」と認めることは社会通念上著しく困難であり、その結果としてこれらの収益は「雑所得」として課税されることになるのであるが、そうだとすると「雑所得」と認定される限り、本件当時は、たとえ継続してこれを売買したことにより如何に損失を蒙ろうとも、損益通算、繰越し、繰戻し等の税法上、右損失の控除を認める規定は存しない。従って一般に株式の継続的取引による損益に関しては、利益の生じた年分についてのみ一方的に課税されることとなるのであるが、証券市場において株式取引による利益を獲得すること自体が甚だ困難であるところから、隅々ある年分に限り利益を得、それが右継続的取引によってもたらされたものであっても、これを申告し納税に及ぶ者は殆ど無いのが実情であった。しかるに徴税当局においてはかかる実情に対し何ら行政上の処置に出ることなく、長年月に亘り、これを放置し、そのことによって生ずる不都合は、売買損益の如何にかかわり無く別途特別徴収される有価証券取引税の強化によって租税負担の公平を図るため画一的課税によってこれを解消させようとする傾向が窺われたのである。

更に、右事情に加えて本件当時においては、証券業界では証券会社自身さえも、専らその売買手数料稼ぎにのみ狂奔し、顧客に回転商いを頻繁に勧めるなどし、従って顧客はもとより証券会社の従業員であっても、個人の株式売買益に対する課税の問題については、その認識が希薄であったことは否めない事実である。

かような事情の存在は、もとより被告人の刑責に直ちに消長を及ぼすものではないが、量刑に際しては看過することのできない点である。「これを情状面において一切顧慮することなく、単に逋脱金額の大きさのみで量刑を論ずるが如きは、前示のように本件当時における証券業界等における実情を併せ考えれば、却って衡平の観念に欠ける憾みなしとしない」(本件は訴追された逋脱金額が著しく巨額に上ったため、公訴提起の当時から社会の耳目を聳動させた事案であり」「しかし叙上縷説の如く、本件逋脱所得はその殆どが本来非課税を原則とする株式の売買益によって占められており、本件当時は例外的課税対象となる継続的売買による所得についての納税者や証券業界の意識も一般に低く、これに対する徴税当局の対応もやや緩やかであったこと」「しかも主として投機を目的としたものではないことの諸点は、本件逋脱所得の内容を構成する所得の特殊性として量刑上被告人に有利に斟酌すべきであり、徒に逋脱金額の高額なことにのみ目を奪われて『申告納税制度』の根幹に触れる悪質な事案であると軽々即断するのは相当でない」としている。

三、以上の両判決の「量刑の理由」をみれば、要するに両者の共通のものとして逋脱犯処罰の目的は申告納税制度との関連において理解すべきであるとする点にある。刑の量定に当たって第一に考慮すべきは、逋脱にかかる不正手段の態様において、それが申告納税制度の根本を否定する程の反社会性、反道徳性を有するものとして一般国民の納税倫理に著しく支障を生ぜしめる程の悪質性が認められるかどうかにある。それは所得秘匿行為の態様において、著しく反社会的、反道徳的な行為・手段と認定でき、逋脱金額とを併せみれば、誠実な納税者として納税倫理を著しく疎外させる程の悪質性が認められれば、責任主義に基づいて実刑が相当というにある。

専ら株式取引による売買益にかかる逋脱所得については、原則非課税であること、個人では継続して売買し損失を生じても何ら考慮されず、利益の生じた年分のみ一方的に課税されること、株式取引による所得については申告し納税する者が殆ど無い実情であること、徴税当局も何ら行政上の処置に出ることなく長年放置していたこと、寧ろこの不都合は、有価証券取引税の強化によって解消させようとする傾向の窺われること、一般にも個人の売買益に対する課税の問題についてはその認識が希薄であったこと、株式取引が主として投機を目的としたものでないこと、などの諸点は、量刑上被告人に有利に斟酌すべきであり、徒に逋脱金額の高額なことに目を奪われてはならない。逋脱金額が多額であることが「申告納税制度」の根幹に触れる悪質な事案と即断してはならないというのである。

結局、逋脱金額の高額であるとか、逋脱率の高いということだけで実刑に処することは不当であるということができる。

四、これを原判決についてみると、原判決の実刑を相当とした理由は、要するに「逋脱税額が高額であり、逋脱率も高く、犯行の動機に特に斟酌すべき事情も認められないこと、株式売買益につき正直に申告する者は少なかったとも言われているが、そのような事情を被告人に有利に解することは、脱税を助長する結果となりかねず、申告制度を否定するものであって、妥当とはいえない」とし、他方、「納税していること、仮名口座等の脱税の手段として悪質巧妙な手段を用いたわけではなく、会社経営者として真面目に稼働し、反省し、前科も競馬法違反のみであるとする有利な諸事情が認められるが、本件では逋脱税額が高額であり、逋脱率が高いことなどから実刑が相当である」というのであって、その論旨からすれば、結局原判決は、逋脱金額の高額、逋脱率の高いことだけを実刑の根本的理由としているということができる。

五、そうだとすると、原判決は前掲両判決の「量刑の理由」の趣旨と根本的に異なるものと言わざるを得ない。

即ち本件は、所得秘匿行為を伴わない虚偽過少申告犯として処断されるべきであり、株式取引にかかる逋脱犯の事案である。

しかも原判決も認めているように、「被告人は株式取引に自己名義の口座を用いており、他人名義や仮名口座を使ったものではなく、仮名預金などもしておらず、脱税の手段として特に悪質巧妙な手段を用いたわけではない」のである。そして、過少とはいえ本件各年分に、いずれも申告納税しているのである。

前述のように当時株式取引をしている個人株主は、現在(平成二年)で約二五六〇万人に達しているが、そのうち継続的取引による所得を申告している人は、僅かに六〇年分で七〇件、六一年分で一八六件、六二年分で一〇五一件に過ぎないことは、殆どの人達が無申告に終わっていることを意味するものであり(弁証第二〇号証、同第二一号証)、このことは量刑上最大の配慮をする必要がある。まさに「正直に申告する者は殆どなかった」とさえ言うことが出来るのであり、しかも、徴税当局はこれに対し何ら対策も講ずることなく、これを放置しているのである。結局、この不都合に対する解決策は平成元年四月一日施行の所得税法改正による源泉分離課税方式などの立法となって現れたのである。現在では、証券市場を経由した株式取引については逋脱犯は絶対に発生しない。つまり立法のうえで解決されたのである。

しかるに原判決は、このような現実に目を覆って、「申告する者の少なかった事情を被告人に有利に解することは、脱税を助長する結果となりかねず、申告納税制度を否定するものである」としているのであって、それが不当なものであることは言うまでもない。

寧ろ、株式取引による売買益にかかる所得の過少申告は、行政処分(更正処分・重加算税賦課決定処分)に委ね、ただ仮名口座など所得秘匿の手段を用いた場合にのみ刑事責任を追及するのが、逋脱犯処罰の基本理念に合致するものである。

六、しかるに本件は、何らの所得秘匿行為もなく、取引した株も「仕手株」ではない。却って過少とはいえ前述のとおり株式売買による所得について申告を了しているのである。小心な被告人が、配当所得を得ているので株式売買益についても申告しなければならないと考え、毎年過少とはいえ申告を行っていた善良な一市民なのである。そして保有株式が値下がりしていれば、「損をしたら売らない」主義から、その評価損は、法人で認められる以上個人でも認められるものと考えて、これをメモし、このことを調査官に対しても正直に訴えたところ、調査官は「気持ちはわかるが税法上は認められない」としながら、明白な回答を示さなかったところから、その返事を待っていたところ、急遽査察をうけて本件に至ったというのである(被告人供述調書一四頁)。

七、最近、著しく高額な株式取引にかかる逋脱犯が摘発されているが、それらはいずれも仮名口座、所得の分散等所得秘匿行為に及び、かつ罪証隠滅をはかったものであって、本件とは著しく事案の内容を異にしている(弁証第二二号証、同第二三号証)。更にバブル経済の崩壊による株価の大暴落のもたらした損失につき、大企業六百数十社が証券会社から、いずれも損失補填を受けて損失を免れている。何故大企業などだけが優遇されるのであろうか(弁証第二四号証、同第二五号証)。

しかるに被告人は本件当時保有していた株式を納税のため損をして売却しており、その売却損は平成二年・平成三年分を合計すると、その額は概算しても、約三億三〇四八万円という巨額に及んでいるが、その損失は何人からも補填されることなく総て被告人の負担のもとに終っており、このような現状のもとにあって、被告人を「実刑」に処した原判決には多大な疑いを抱かざるを得ない。

最近に至って漸く逋脱金額の高額であり逋脱率が高いというだけで実刑に処するという風潮に対する反省として株式取引にかかる所得税法違反事件につき執行猶予の判決が言渡された事例も出現している(東京地裁平成三年八月二二日判決、平三・八・二三付日経新聞及び同裁判所同年一〇月三〇日判決、同日付朝日新聞、弁証第二六号証、同第二七号証)。

第五、原判決の量刑は、その他の情状を考慮しても、余りに重きに過ぎるものである。

一、被告人は本件修正申告に係る所得税(本税)、延滞税、重加算税、及び地方税を含めてその全額を既に完納している。

(1) 被告人は東京国税局査察部の査察をうけた直後である平成元年三月一六日、収税官吏の勧めに応じて昭和五八年乃至昭和六二年分までの五ケ年間の申告所得税につき所轄税務署に修正申告書を提出しており、右修正申告額は右各年分の本税、重加算税、延滞税を加算すると計金一八億〇九七万四七七二円であり、それに右各年分の地方税(市民税、県民税)計金三億二七三六万三七〇〇円を加算すると、総合計は金二一億二九三三万八四七二円に及んでおり、その額は被告人が昭和五九年度より昭和六二年度の五年間に亘って働いて得た総利益額を、はるかに超えるものである。

(2) しかる被告人は平成元年三月一七日から同年四月七日まで三回に亘って右所得税(本税)の全額を、同年八月一一日から平成二年三月二八日まで八回に亘って重加算税、延滞税分の全額を、さらに平成元年九月一〇日から平成三年三月三一日まで毎月金一八〇〇万円宛分納して、地方税の全額を納付している。

(3) しかも鶴田直子や被告人の原審公判廷での供述によると、被告人は右本税などを納付するため、被告人の保有していた株式を売却し、定期預金などを取り崩し、更に自宅を担保に金融機関より多額の融資を得て右所得税(本税)などの納付にあて、そのため金融機関に毎月支払うべき金員は利息だけでも二〇〇万円を超える状態で、現在では被告人一家の生活は決して楽ではない。被告人やその家族も、本件を契機に夫々自立し或はアルバイトするなど一家あげて被告人に協力しているものの、その返済は今後更に十数年間を要する状態にあり、万一返済を怠るときは被告人一家は住む家さえ失い兼ねない状況である。

(4) この様な状況を考えると原判決が被告人に懲役一年六月の実刑に処したこともさることながら、被告人を罰金二億五〇〇〇万円に処したのは、余りに重きに過ぎるものがあり、減額されるべきである。

二、被告人は本件後、前記本税など納税するため保有株式など売却せざるを得なかったが、最近の株式の大暴落により多額の損失を蒙っている。

(1) 被告人は前記所得税など納税するため保有株式を売却せざるを得なかったが最近のバブル経済の崩壊による株式の大暴落により多額の損失を蒙っており、その売却損は約三億三〇四八万円にも達しており、その損失は現在の被告人にとっては正に巨額であると言える。

(2) 現行所得税法によると、株式売買益が発生するとそれが課税要件を充足する限り所得として総て申告することを要求されているが、逆に損失が発生した場合、それが如何に巨額であっても何ら補填されることなく、総て納税者の負担において処理せざるを得ないのが現状であって、それは余りに片手落ちであり、かつ不公平でもある。

(3) しかるところ最近の新聞報道によると、我が国における証券市場での株式取引を取扱う証券会社は、大口取引先である大企業六百数十社に限ってその損失を補填している。

この様に法人が税法において、或は株式取引の現状において優遇されている反面、小口取引先である多数の個人が税法上からも、取引上からも犠牲を強いられる状況下で、原判決のように個人に対して実刑判決をもってのぞむことは、法の正しい運用という見地からすれば多大な疑問があると言わざるを得ない。しかも本件のように被告人が実刑判決を受けることにより、被告人の経営する矢田産業株式会社は倒産の危機にさらされ、多数の従業員やその家族が路頭に迷わざるを得ないとしたら、それは被告人のもとで働く多数の従業員のうける犠牲は余りに大きく、被告人としてはやりきれない思いがする。

三、原判決は(量刑の理由)において、「被告人は会社を経営しており、被告人が服役すると、右会社の経営に影響がでることが予想されるが、そうであるなら、なおさら自らの地位を自覚し、法律に違反することのないよう心掛けるべきであり、法律違反の懸念があるなら、専門家に相談して法を遵守すべきであるところ・・・そうしなかったもので、会社経営者であるという事情を軽々に被告人に有利に解することは出来ない」と判示している。

もとより弁護人としても被告人が自らの地位を自覚し、法律に違反することのないよう心掛けるべきであることは原判決の判示するとおりである。しかし本件においては原判決が認定するように被告人は株式取引に際して自己名義の口座を用いており、他人名義や仮名口座を使ったものではなく、仮名預金などもしていないだけでなく、前述したように被告人は保有する全株式の「配当所得」について、昭和三六、七年頃から毎年、配当金内訳書を添付して総て正直に申告している。

即ち、被告人の株式取引には、何ら作為もなく、かつ、所轄税務署の係官としては、過去数年間に亘る「配当所得」申告内容を比較検討すれば、保有株式の売買状況は概ね知り得ることが出来るのであり、証券市場の株価の動向からすれば、被告人の株式売買益は或る程度把握し得たのである。このような状況を考えると被告人が実際の所得から保有株式の評価損を控除したのは、当時の被告人が法人税法同様、所得税法においても右評価損を控除出来ると確信していたからであり、それは正に所得税法に対する見解の相違といえる。また前述したように申告納税制度のもとにおいては、申告額をどのように算出するかは納税義務者の判断と責任に委されているのであって、本件のような事案においては被告人が自己の確信に基づいて申告額を算出し、専門家に相談しなかったとしても、それ自体、被告人を非難することは出来ないと同時に、被告人が自らの株式取引と会社の株式取引を明白に区別するなど配慮していたことなど考慮すると、本件の結果が被告人の経営する会社に危機をもたらし、多数の従業員とその家族が路頭に迷うことになるとしたら、それは本件の情状として当然考慮されるべきである。

四、被告人は本件を契機に自らの立場を自覚し、今後は本件の如き過ちを犯すことのないよう配慮し、これまで被告人の経営する矢田産業株式会社の顧問税理士であった田中政司に被告人個人の所得税の申告についても総て委嘱することにしており、同税理士もこれを容れて被告人の所得の総てを管理し協力することを約束するなど、被告人としては同税理士の指導のもとに経理と申告に改善措置を講じることにしている(証人田中政司により立証予定)。

五、被告人は原判決後、原判決を厳しく受け止め反省し、妻子と相談した結果、家族の生活費をさらに切り詰め、新に自宅を担保に金融機関から融資を得て、日本赤十字社及び日本育英会に対し各金一〇〇〇万円を贖罪のために寄付している。

以上により明らかなように、原判決には判決に影響を及ぼす法令解釈適用の誤りがあり、事実を認識しており、かつ被告人に対し刑の執行を猶予することなく実刑に処したのは、量刑不当であるから当然破棄されるべきである。

以上

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